Once in a blue moon.
イーストエンドの夜に明かりはない。 貴族や上流階級の人間が多いウエストエンドでは日常的に燭台やランプが使われているようだが、最貧を極める人間ばかりが集まるイーストエンドでは、夜の明かりよりその日のパンを買う方にお金を回すのは当たり前の事だ。 だからイーストエンドの街は日が落ちれば酒場や娼館のような娯楽施設を除いて墓場のように暗く闇へと沈む。 大都市ロンドンが抱えた矛盾の闇。 その中で息を潜めるようにして生きる人々。 それがジャック・ミラーズが物心ついた時から知っている『世界』だった。 そして今夜もまたその『世界』をジャックは駆ける。 けれど ―― ―― とん、 着地の足音も立てずに、路地裏へ降りたジャックは浅く息を吐いた。 その息が、すぐに絡みついてきた重たい霧を揺らす。 (今夜の仕事は・・・・これで終わりか。) 義父であり、上官であるモラン大佐に言いつけられた標的を始末する任務は完璧にこなした。 ふっと、見上げた今抜け出してきた部屋で今頃、組織の死体処理の専門家達が、ジャックが音もなく殺した男の死体を闇に溶けるように綺麗に消してくれるだろう。 もっとも、死体が消えたところで、ジャックが殺したと言う事実は消えはしないが。 「・・・・ちっ。」 得物である金属製の爪に付着した血はすべて拭き取ったはずで、返り血も浴びていないから今のジャックを見て殺人を犯してきた直後だと気づく者はいないだろう。 けれど、手に残った肉を絶つ生々しい感触が妙に蘇って小さく舌打ちするとジャックは踵を返して走り出した。 ジャックが履けばどんな靴も足音を立てることを忘れる。 人気が無く狭い路地をジャックが走っていると感じさせるのは、重たい霧だけだ。 物心ついた時から知っているジャックの世界に、それしか選び取る事ができなかったジャックの仕事。 けれど、今夜はやけに。 (・・・・気分が悪ぃ。) 任務が終わればアジトに戻って報告するのが義務だ。 しかし真っ直ぐにあの屋敷に帰る気にどうしてもなれずに、ジャックは最短距離の道を外れる。 重苦しくまとわりつく霧がうっとうしい。 常であればジャックにとっては最大の武器である霧も、今は忌々しいものにしか感じなかった。 「・・・・・・」 低い民家のベランダを足がかりに屋根へと駆け上がったのは、何か考えがあったわけではなかった。 ただ、淀んだ霧の中にいたくなかったのかもしれない。 ヤードの目をくらます時に屋根を渡る事はままあるので、慣れた手つきでジャックは屋根へと上がる。 イーストエンドの粗末な民家ではあっても、屋根の上とも成ればそれなりに地表からは離れるものだ。 上へと上がるたびに、霧が薄くなり、少しだけ気分が良くなる。 最後の一蹴りをして屋根へ上がった瞬間 ―― ジャックは足をとめていた。 「・・・・ああ・・・・」 ――― 月が、出ていた。 美しい円形をした満月が。 イーストエンドには人工の明かりがない。 それ故に他の地区よりも月は明るく輝いて見えた。 イーストエンドの『世界』の中で、ジャックが知る数少ない美しいもの。 普段であれば月明かりを全身で浴びるような場所からはすぐに立ち去るジャックだが、今夜は足が動かなかった。 縫い止められたように降り立った屋根から月を見つめ。 ―― ふいに、その月に一人の少女の姿が重なった。 金色の髪、薔薇色の頬、空色の真っ直ぐな瞳・・・・エミリー・ホワイトリーに。 子どもっぽいほどに良く動く表情を見ていると、月というより太陽に例えたくなるが、こうしてイーストエンドを照らす満月を見ていると思う。 (・・・・似てる。) どんな者にも当たり前のように降り注ぐ光と、彼女の笑顔が。 エミリーの面影を思い出したら、何故か心がゆるんで、ジャックは力が抜けるように屋根へ座り込んだ。 最初、女王陛下のお気に入りの探偵がクラスに編入してくるという話を小耳に挟んだ時には、自分には関係ない話だと思っていた。 それなのに実際現れたエミリーは、何故かわからないがやたらとジャックに構ってくる。 それがうっとうしくてかなり冷たくあしらったはずなのに、彼女は一向に気にする気配がなかった。 それどころか文通をしよう、などと言ってくるしまつで。 (・・・・正直、呆れた。) そう考えながらも、ジャックの口角が無意識に上がる。 その後は書き上がった手紙のやりとりしかしていなかいから、目の前で手紙を書かれたのはあの時だけだが、自分ごときに寄越す手紙を書くのにエミリーが百面相をしていたのを思い出したのだ。 もちろん、本人は無意識だろうが。 (変な、奴。) 内心でそう呟いてみるものの、蓋を開けたようにジャックの脳裏にエミリーの姿がいくつも蘇ってくる。 授業中、難しい問題に手こずって眉間に似合わない皺を浮かべている横顔。 手紙を渡してくる時の少し悪戯っぽい笑み。 個性的なクラスメイト達の言動に目を丸くしている姿。 そして 『ジャック!』 なんのためらいもなく、振り返って名前を呼んで浮かべる微笑み。 「・・・・・・・」 心を締め付けられるような感覚に、ジャックはわずかばかり顔をゆがめた。 (あいつは・・・・まだ、何も知らない。) エミリーにとってジャック・ミラーズという少年はイーストエンド育ちの毛色の変わったクラスメイトであり、それ意外の何者でもない。 彼女が心配そうに見つめてハンカチを巻いてくれたあの傷が、標的に予定外の反撃にあった時についたものであることなど想像もしていないだろう。 無意識にジャックはベストの内側につけたポケットに触れていた。 左胸の近くにつけたそこには、エミリーの手紙が入れてある。 仕事に持って行くことで汚してしまう恐れもあったが、モラン大佐の屋敷に置いていく方が嫌だった。 なら処分してしまえばいいと思うのに、それもできず、今まで物に執着など無かったジャックを戸惑わせた。 たかだか数通の手紙の内容はすべて頭の中に入ってしまっている。 お茶とお菓子が好きで、しょっちゅう執事に怒られていて、田舎育ちだけど虫は少し苦手なお嬢様。 どこまでも真っ白なハンカチのように、綺麗な便せんに綴られたエミリーの姿はジャックにはまぶしいほどだった。 (・・・・関わっても良いことなんか、ない。) 双方にとって。 頭ではわかっているのだ。 暗殺者として裏の顔を持っていることなど到底エミリーに明かすことはできないし、万が一知られれば彼女を殺さなくてはいけなくなる。 その一番重要な部分を彼女に隠して付き合うのは酷く不誠実なことだとわかってもいた。 でも。 ―― ジャックはいつの間にか足下を見ていた視線を夜空へ・・・・月へ向ける。 (・・・・あいつが、笑う、から。) 何より重要な事を、場合によっては自分が彼女にとって一番危険な人物となることを隠したまま、今の距離をたもち続けているジャックにエミリーは微笑むのだ。 イーストエンドを照らす月のように。 『ジャック!』 金色の髪に縁取られた笑顔は、何もかもを受け入れてくれるかも知れないと錯覚するほどに優しく無条件にジャックに向けられるのだ。 (ああ・・・・くそ、) 額の奥が鈍く痛む。 もしかしたら、今、自分は泣きそうな顔をしているのかもしれない。 そう思うぐらい、胸が痛かった。 誤魔化すように月を見上げて、そのまばゆさに目を細める。 「・・・・遠い、な。」 月を手に入れようとするなど、愚か者のすることだ。 けれど、今のジャックには、愚かと言われても月に手を伸ばす者の気持ちがわかる気がした。 触れられなくても構わない。 ただ一瞬でも、月を手に入れる・・・・エミリーに触れる幻想を見たかった。 そう思って伸ばした手の先で、銀色の爪が鈍く光って、ジャックははっとした。 人を切り裂いてきた凶器。 そんなものをつけた手で、触れられるわけがない。 「・・・・・・・・・・」 カシャン、と握り合わせた事でぶつかった爪が音を立てるのを、どこかばかばかしい思いでジャックは聞いた。 「何を、やってるんだろうな。俺・・・・」 月はどこまでも月で、いくら光を降り注いでくれても手が届かないものなのだ。 同じように、いかに隣で過ごしていても、笑いかけてくれたも、エミリーと自分はまるで違う者で、一瞬の交錯以上の意味は何もないのだ、と。 ずくっと痛んだ胸は気づかなかったことにした。 思わず握りしめた手のひらを、爪が傷つけたことにも気がつかなかった。 ただ、己の感情を振り切るように立ち上がったジャックの顔から一切の表情が消える。 (寄り道、しちまったな。) 気がつけば任務を終えて真っ直ぐ屋敷へと戻るより大分時間が過ぎていた。 これはモラン大佐の叱責は免れないな、と思いつつ屋根の上をジャックは走り出す。 家とはいえない、家へと向かって。 刹那、見た幻想と願望を振り切るように走る彼は、もう一度も月に目をむけなかった。 だから・・・・気がつかなかった。 ―― 彼の走るさらに先へ、月の光が道を照らしていることに。 〜 END 〜 〜 おまけ 〜 「・・・・て、思ってた時期もあったな。」 ホワイトリー家の庭の片隅、小さくしつらえた東屋から月を見上げたジャックはそう呟いた。 今夜もあの時と同じように満月だ。 あの光はイーストエンドにも届いているのだろう・・・・ここ、ウエストエンドと同じように。 暗殺者の衣装を、フットマンのお仕着せに変えたジャックは、少し前のそんな思い出話をしてしまったことが、気恥ずかしくなって適当に誤魔化そうかと、隣にいる少女に目を移して、ぎょっとした。 「ちょ、お前、なんで泣いてるんだ・・・・!」 「え・・・・」 きょとんっとしたように目を丸くして、そのせいでぽろっと頬を伝った涙にエミリーは驚いたような顔をした。 「あ・・・・」 無自覚だったのか、と眉をひそめるジャックの前でエミリーは慌ててハンカチを出そうと手元を探った。 けれど、制服やレティキュールを持っているときと違って、屋敷用の簡素なワンピースにはハンカチは見つからなかったようで。 「えっと、ご、ごめんなさい。」 慌てたように袖でぬぐおうとするから、ジャックは苦笑した。 「お前、また行儀悪いってペンデルトンさんに叱られるぞ。」 「だってしかたないじゃない。泣かせたのはジャックなんだから!」 開き直ったようにそう責められて、ジャックは眉間に皺を寄せた。 「俺かよ?」 「そうよ!そんな・・・・そんな悲しい、のかしら。」 「は?」 「よ、くわからないわ。ジャックの話を聞いて、悲しいって思う気持ちと、嬉しいって思う気持ちがあるの。」 自分でも口にして意味がわからないと思ったのだろう。 困ったように言葉を探るエミリーを、ジャックはただ黙って見つめていた。 「ジャックが空の月みたいに私を感じていた事はとても悲しかった。ジャックの生い立ちとかわかっているつもりだったけれど、貴方がそんなに苦しんでいた事に気がつけなかったのも悲しかったわ。」 言葉通り、本当に悲しそうに顔をゆがめるエミリーに、ジャックの胸の内に後ろめたい小さな優越感が生まれる。 エミリーにこんな顔をさせているのは自分で、それがどんな感情の元に生まれているか、知っているから。 そんなことをジャックが考えているのに気づいているのかいないのか、エミリーは言葉を続ける。 「でも、ね。」 「・・・・・・」 「もう今は、お月様みたいだなんて思ってないでしょ?」 そう言って空色の瞳がのぞき込んでくる。 少しだけ不安そうに揺れた瞳に鼓動が跳ねた。 金色の髪は月の光を受けて淡く輝いている。 涙の滑った頬は相変わらず薔薇色で、ジャックの指が触れたら傷をつけてしまいそうだ。 だから。 「・・・・いや。」 「え?」 「エミリーは、今でも俺にとっては月みたいなもんだ。」 きっぱりと言った言葉に、エミリーの顔が目に見えて曇った。 そのわかりやすい変化に、ジャックは内心で小さく笑ってしまう。 エミリーは変わらなかった。 ジャックが多くの裏切り者を闇へ葬った暗殺者だと知っても、彼女を偽っていたことを知っても、迷って悩んで、それでもジャックへと手を伸ばしてくれた。 だから、ジャックにとってエミリーはイーストエンドの闇を照らしてくれた月のように、たった一つの変わらぬ光。 ・・・・でも。 「エミリー。」 大切に紡いだ名が甘い響きを持つことに、ジャック自身まだ慣れない。 闇の中を走り続け、一瞬の交錯でしかなかったはずのエミリーの隣に、今、こうして自分がいることさえも、都合のいい夢のようだ。 なに?と見上げてくるエミリーは確かに隣にいるから。 ジャックは、その頬へ手を伸ばした。 「あ・・・・」 髪を避けるように微かに触れれば、エミリーの頬が微かに赤みを増す。 「お前は俺とは違う。生まれも育ちも何もかも。でも、」 エミリーは誰よりも大切な、女の子だから。 迷わずジャックはエミリーの頬へ唇で触れた。 「っ!」 ぴくっと跳ね上がった肩を押さえて、目の端に残った涙を掬い取る。 そしてそっと離れれば、薔薇色などとっくに通り越して、林檎よろしく真っ赤になったエミリーがまん丸く目を見開いていて。 「・・・・お前、すげー真っ赤。」 「ジャ、ジャ、ジャック!?」 くっと思わず笑い声を零すジャックに、半パニック状態のエミリーが裏返った声を出した。 「な、なんでさっきの話からこの展開なの!?」 「いや・・・・さっきの話の続きだから、だろ。」 「えええ!?」 「だから、さ」 探偵としては明晰な彼女の頭脳も、恋愛となると鈍くなるらしい。 わけがわからない、とばかりに困惑したエミリーに、ジャックは手を伸ばした。 月の光の中に伸びた手には、鈍く光る爪はない。 そして ―― 手は簡単にエミリーを抱きしめた。 「!?」 いつにないジャックの積極的な行動に驚いたのか、もはや固まってしまったエミリーをしっかりと抱きしめて、ジャックはその耳へ宣言するように囁いたのだった。 「お前の事は月みたいだって思うけど・・・・手を伸ばせば、ちゃんと触れられるって知っちまったから、な。だから・・・・」 ―― そうして、確かめるように重なる二つの影を、月明かりは変わらず照らしていた。 〜 END 〜 |